「涼やかに語る尼僧の影ゆれて み堂に漏れ来る光 幾すじ」 (かすみさん2001年7月31日)
またまたいい視点ですね。これは前後を逆にした方がいいでしょう。
添削
「光・風 み堂に差しきて涼やかに語る尼僧の影ゆれにけり」 (かすみ)
風を入れることで影の揺れが理解され、前後を入れかえることで尼の影が絞られてきました。尼の影と、光の射し具合の二つを主張したのが無理でした。 ありがとうございました。
「涼やかに語る尼僧の影ゆれて み堂に漏れ来る光 幾すじ」 (かすみさん2001年7月31日)
またまたいい視点ですね。これは前後を逆にした方がいいでしょう。
添削
「光・風 み堂に差しきて涼やかに語る尼僧の影ゆれにけり」 (かすみ)
風を入れることで影の揺れが理解され、前後を入れかえることで尼の影が絞られてきました。尼の影と、光の射し具合の二つを主張したのが無理でした。 ありがとうございました。
「小花なれど季節を追うて咲く花は武骨な父の遺せし命」 (桐子さん2001年7月28日)
この花の名前が知りたいですね。歌に詠み込むのです。返事待ちます。添削はそのあとで。
大袈裟な花ではありませんが今の時季は百日草、キバナコスモス、マリーゴールド、千日ボウズ? が咲いています。特に手を懸けるというわけではないのに毎年花を咲かせます。実は私も花の名前を入れたほうが良いのか迷いましたが・・・。
詠みなおします。
「百日草父の遺せし花ならば夏毎咲くをいとおしみつつ」 (桐子さん2001年7月31日)
前より分かり易く良くなりましたね。ただ、「遺せし」は「遺しし」が正しいですね(連用形)。また、「花ならば」は「なり」の未然形「なら」に「ば」がついているので仮定なのです。「(もし)花だったなら」という意味です。ここはそうではなく、「花なので」「花であるので」と言いたいわけですから、已然形にして、「花なれば」としなければなりません。こういう文法のことはおいおい慣れればいいわけですが。
添削
「百日草--亡父の育てし花なれば今夏もさはに咲きていとしも」 (桐子)
(さはに=たくさん)
夏になると小さなクチナシの木は丸坊主になります。見れば揚羽の幼虫が元気よく葉っぱを食べています。あげはちょうをみると心が和みます。
「ひらひらと クチナシの木に 舞うあげは ふるさとの香を 探しあてしか 」 (あゆ子さん2001年7月24日)
ひらひらと舞う,というのはいかにもその通りですが,あまりにも言い慣れた言葉ですね.もう少し工夫がほしいところです.
添削・改作
「揚羽蝶くちなしの木に纏はりて自在に舞ふは汝が故郷ゆゑ」 (あゆ子)
「雨上がり しずかなる朝 迎えおり 花つゆ含み 葉はみどり濃く」 (あゆ子さん2001年7月23日)
空梅雨で心配していたときで、恵みの雨になりました。
これでもいいですが、添え書きのように空梅雨で恵みの雨だということを入れたいところです。そうすると後半が一段と生きてくるので。
添削・改作
「空梅雨を嘆くに慈雨がしばし降り花の朝露もろ葉のみどり」 (あゆ子)
(もろ葉=諸葉;いろいろな樹木の葉)
「池の面に淡きピンクの蓮の花ポンと音たて開く花びら」 (栗太朗さん2001年7月21日)
毎日30度を遥かに超える猛暑が続いています、半ズボンとランニングシャツで頑張つています、こんなとき私の近くに蓮池が有りそこで蓮の花のポンと音立てて花の開くのを木陰から時たま渡つて来る風に涼しさを求めながら、その瞬間を見るのも又た一風の味があります。 「の」が重なり過ぎですか風景詠は難しいです、まだまだ私には無理の様です、お教えください
蓮がポンと音をたてて花ひらくことに感動されていますね。それなら淡いピンクだと分かっている花が開く、とするより、開いてから「淡いピンク」だと知る、というように語順を変えるのが、より感動的でいいですね。
添削・改作
「時おきてポンと音たて淡紅のおほ華ひらく蓮に癒やさる」(栗太朗)
(おほ華=おほばな;大きい花)
「今日もまたこの一日を掬い取る言葉なきまま眠りに落ちる」 (酔狂さん2001年7月17日)
作歌する者が時として味わう悩みを味わっておられて、よく理解できます。
最後を言いきるかどうかは、内容次第ですね。言いきって十分余韻が残る作品も勿論多々あります。余韻は印象に通じ、読者の心にいかに残るか、です。
この作品、第一、ニ句が重複語で残念です。また、この歌の芯ともいうべき「言葉なきまま」に、懸命にさがしても見つからないというニュアンスがないのが惜しいです。最後の「落ちる」は意味としては過去、つまり落ちたということでしょうが、そうすると、初句の「今日も・・」と合いませんね。昨日もならいいけれども。(勿論、昨日では新鮮さがなくなってしまう。)第三句「掬い取る」はこの場面にピタリの語ですね。
こうしたことを考えに入れながら改作してみましょう。
添削・改作(梧桐):
「今日といふひと日の生を掬ひ取る言葉得ぬまま眠りに落ちむ」(酔狂)
短歌には定型詩としての言葉の美しさ、リズム感が必要?そして人にいろいろな意味での感動を与える内容を盛り込む?・・・・そういう手だけとして語韻とか余韻とかいうものがあるようですがそれっていったいどんなことですか?
「飢餓ゆえに言葉失う人ありて言葉に飢えし我は痴れ者」 (酔狂さん2001年7月14日)
酔狂さんの作品は迫力があり、力があります。今回の作品はそれに応えるだけの歌材・内容ですね。これにさらに言葉つまり詩語としての美質を求めるのは酷というものかも。それが酔狂さんの個性ならば、なおさらです。これはこれでいいと思います。
もちろん、あおぎりなりの添削・改作は出来ます。
添削・改作(梧桐):
「飢餓ゆゑに言葉失ふありといふ言葉に飢うる吾は痴れ者か」 (酔狂)
これで語の流れもよくなり、緩むところなく、語韻も悪くない、余韻もそこそこの、一級品の文語正統派短歌が出来ました。結句、原案のように言い切るのではなく、上のようにすれば余韻が深くなるわけです。語韻とか余韻は短歌の生命を担う重要な因子です。日本語の美しさの一側面です。
勿論、酔狂さんが捉えた歌材が良かったから、このような含蓄ある秀歌が出来たのです。ほとんど酔狂さんのお手柄です。
(注:「言葉失ふありといふ」=言葉を失う者があるという、の意味。
「失ふ」は連体形で、それを受ける連体語(「者」)を省略した形。「飢うる」は「飢う」の連体形。「飢う」は下二段活用の動詞。飢ゑ、飢ゑ、飢う、飢うる、飢うれ、飢ゑよ、と活用(変化)する。)
「拍手受けご褒美もらうセイウチの甘えし顔もまた花を添え」 (桐子さん2001年7月13日)
ご褒美を貰うのなら、甘えるよりも喜ぶのでは?このご褒美は餌の魚かなんかですね。また、このセイウチは美人か美少女セイウチですかね。結句の「花を添え」からそうなりますね。いえ、そんなことは分からない、雄かもしれない、ですって?おやおや。--と、このように、一旦歌にしたものを、自分で批判的に見直すといいと思います。それにより改良するのです。
改作
「曲芸を終えたセイウチ拍手受けご褒美もらうもかわいい仕草」 (桐子)
確かに語法的、文法的におかしいと思ってもなかなか先に進めず、
結局、そのまま元歌で添削をお願いしてしまいます。
まだ、勉強不足ということもありまして難しさを痛感しております。
でも、詠むことは楽しくこれからも続けたいと思いますので
よろしくお願いします。
ははは。誰でもはじめの内はそうですよ。あおぎりも、もう40年も前のことですが、「コスモス」という短歌同人グループへ参加した当初は、さんざん添削されたものです。しばしば「これは添削ではなく、改作であり、しかもこちらが詠みたい内容と全然違う」といったことも多く、ちょっと不興に思ったこともありましたが、のちのち、あれは「歌の形」を教えられていたのだと気づき、納得したものです。先人の歌、簡単に詠まれているようで、その実は相当な経験が込められているものです。慣れてくれば、すいすいと出来るようになるものです。(歌材によっては、どれほど鍛錬した者でも苦吟に陥ることがありますが。)但し、推敲は欠かせません。
「楽しい」から歌を詠む、これが基本ですから、それでいいと思います。これからもどんどん投稿して下さい。
「梅雨月夜ピアスを片方落としたの見つかるはずなのもう少しいて」 (nanamiさん2001年7月13日)
ピアスとあるから、若い女性ですね。添削には最小限の情報が必要でしてね、若いかご年配かくらいは知らないと。(最近は青年男子もよくピアスをしていますね。しかし、歌の感じからは明らかに女性。)
この歌、ピアスをうっかり落としたので、デートの相手を待たせて、月明かりを頼りに探している、という情景ですね。
初句「梅雨月夜」、苦労して探しあてた言葉かも。これまでにない表現、新しい表現です。今年は空梅雨で、月夜も珍しくなかったわけですが、短歌の常識的語法からは、やはりちょっと無理かな、という感じがします。雨の文字が入った「梅雨」という季節用語は、やはり雨天をどうしても連想させてしまうのです。
また、全体的にも語の運びがちょっと滑らかさに乏しいかな。例えば「片方」とわざわざ言わなくてもいいのでは?同時に両方を落とす確率は低いから。このように筋立てて考えて行き、無駄な言葉をなるべく省いて.真に言いたいことに焦点が当たるように組み立てるのです。
こういうと、大変そうですが、いやなに、数多く歌い込んで作歌に慣れてくると、自然にそのようになってゆくものです。
今回が最初だから、これ以上あまり難しいことは言いません。
ちょっと起伏を付けるようにしてみましょう。
添削・改作
「雨季だから潤んだような月明かり 落としたピアスあなたも探して」 (nanami)
「報われぬ道と知りつつ歩みゆくや老女の姿吾に重なる」 (山口須美さん2001年7月13日)
この歌,状況が分かりませんね。つまり,老女が歩いている目的がはっきりしません。ですから,何がどう報われないのか不明ですね。したがって,最後の心情表白も生きてこないのです.歌に盛り込むべき最低限のものがあるわけです。その点に注意して,もう一度詠み直してください。
50歳の半ばになり、日々老うることの怖さと老後の生活の不安がいつも私を追いかけます。老いた人が歩いているところを通りすがりに見たときふと感じたことです。よろしくお願いします。
「黙々と只ひたすら歩みゆく老女の姿にふと吾重ぬ」 (須美さん)
この老女の姿にその過去生のすべてが詰まった深い人生的な疲れを見られたのだと思います。人の(つまり自分の)行き着く先がこの老女の姿に見えてしまった、そういうことですね。
改作
「濃き翳を背負ひ黙々と歩み行く老女の後姿(ウシロ)やがてわれかも」 (須美)
(後姿=うしろ。短歌ではよくこのように読ませます。)
「マンションに雨戸がないから眩しくて年に一度の早起きしたわ」(桐子さん2001/07/10)
「マンションに雨戸がないから眩しくて・・・」という言い方、わざわざ眩しい理由を、つまし理屈を述べていますね。こういう理屈っぽい語の斡旋は避けたいものです。短歌は理屈を述べるものではないからです。
また、雨戸がないのは常時ですから、雨戸がないという理由で、どうして年に一度の早起きをしたのか、と読者は不思議に思うでしょう。すなわち、詠みたいことが十分整理されていないということです。
口語短歌はどうしても軽くススーと流れてしまうので、印象・余韻も軽くなり勝ちで、どう起伏を付けるかが苦労するところです。勿論、その前に歌材の選択という、もっと大事なことがありますが。
とにかく、与えられた素材でやってみましょう。
改作:
「朝焼けの光が窓にきらきらしていつもより早く起きて拝んだ」 (桐子)
今は雨戸がない家が多いですね。その代わりブラインドがある。ブラインドを降ろし忘れたのですかね。それなら・・・
改作-2:
「ブラインド降ろし忘れた明くる朝窓の光でもう目が覚めた」 (桐子)
「風鈴の音と夜風の流れ込む月の光もほの白く見ゆ」 (桐子さんお母様2001年7月9日)
誠に静かな心境ですね。ただ、起承転結のない、事象の平坦な羅列になっています。もう少し起伏をつけましょう。風鈴は「音;おと」より「音;ね」がいいですね。
改作
「風差せば風鈴しづかな音にふるへ月光いよいよ晧さまさり来」 (桐子母)
(音=ね) (晧さ=しろさ)