この酔芙蓉の微妙な色の変化は不思議ですね。初句「名にしおふ」はどうでしょう。かなり古韻ですが、、、槿花さんふうということでいいかな。それでも少し大げさ?「酔い」は「酔ひ」ですね。「早や」は「早」ですが、ここは平仮名で「はや」がいいですし、「さして」は漢字で「差して」がいいですね。これらは読み易さとか、活字を見たときの感じとかから言っていることです。
添削
「黄昏の庭に灯ともし酔芙蓉ほろ酔ふさまに紅(くれなゐ)差すなり」(槿花)
「木曽川の緑の土手に彼岸花群れ咲き雨に打たれて紅し」 (ゆう子2002年9月29日)
「雨に打たれて紅し」はどうだろう。雨に打たれるから「紅」いわけでもないだろうし。。。しかし、緑、雨、紅、と並べて、色彩感覚を出そうとしているところはいいね。初句「木曽川の」も、実際はどの河でもいいのだろうが、固有名詞を使うことで歌が締まるということはあるね。
添削
「木曽川の土手緑濃く点々と朱の彼岸花雨にきわだつ」 (ゆう子)
「雲間より光りのシャワーが降り注ぎ見下ろす琵琶湖は輝きを増す」(ゆう子2002年9月24日)
歌は、伊吹山の標高1260メートル地点にある駐車場から周囲を見渡したときの感動で、とくに琵琶湖が予想以上近くに見え、傾いた日の漏れ陽をたまたま受けて光り輝く姿が見られて、得も言えぬ美しさだった。それを詠んだのだね。「光りのシャワー」と名詞で使うときは、たとえ口語新仮名でも「光」でいい。(他によく誤用される例に「話し」がある。名詞なら「話」でよい。「話し」は「話す」という動詞の連用形。確かに、この連用形が転じて、名詞「話」が出来たが。それは「光」も同様。動詞の連用形転じて名詞となるということ、その他にも沢山例がある。その場合、活用語尾を残さないことが多い。残す例もあるが、それは名詞としてまだ十分自立していない語。例えば「焦り」など。)
この歌、美しい一瞬を捉えたところはいいけれど、語順など、まだ推敲の余地がある。第一、伊吹山が出てこないのは惜しいし、変だね。「見下ろす」だけでは惜しいのです。
添削:
「雲を破り射す日に琵琶湖が輝くを伊吹山より茫然と見き」 (ゆう子)
(「雲破り射す日に琵琶湖輝くを伊吹山より茫然と見き」とすれば、字余りなく、定型に収められるけれど、全体に詰まった(窮屈な)感じとなる。それゆえ、あえて字余りを使い、語調にゆとりを与えた。)
真剣に短歌に取り組もうとするには随分難しい事ですね、前記でのべたように只三十一文字並べれば歌になると云う安易な考えでは何時までたっても上達しない事に気がつきました。(九里多朗さん2002年9月22日)
それはそうでしょうね。少しは上手く詠もう、という意識も(短歌にあまり慣れていない間は)必要でしょうね。
それから「あおぎりさん」に伺いますが、私のように実際に体験したり見たりした事を歌材にしてしか歌の作れない不器用な人間は進歩しないのではないでしょうか。最近の自分の作品を読むだびに、つくづく拙さを思い知らされています。もっと基本的な事を忘れて歌作りをしているように思います、教えて下さい。
いや、多朗さん、結構いい歌を詠んでこられましたよ。歌作りは「実際に体験したり見たりした事を歌材に」することが基本ですから。それは決して不器用ということではありません。たしかに、同じ歌材を詠むにしても、色々切り口があり、したがって種々の詠み方がありましょう。「もっと基本的な事」と言えば、他の人の短歌作品をたくさん読むことで、歌の調べとか節調とかに慣れるとともに、たくさん作歌する(歌を詠む)ことで自分の調べを獲得すること、また文章力のある小説家の作品を(散文ですが)多く読むことで、人を納得させる語の流れを感得するとともに、語彙を増やすこと、などが考えられます。短歌を始められたこと、そのこと自体が多朗さんには歌才があることを示しているわけですから、焦らず、ゆっくりじっくりと、永く作歌を続けられれば、短歌というものに自然に慣れられ、多朗さん固有の短歌作品が出来るようになるはずです。いや、これまでも正直おやっと思わせられるお作が結構ありましたよ。
こうしたこともそうですが、「上達する」ことは考えることなく、ただ歌に慣れ親しみ、楽しむ、という気持で短歌をやることもできますね。こうした気持でやられればいいのではありませんか?作歌が苦痛では、本来の意味がなくなります。楽しんでやってください。「上達」がなんですか。それを意識することなく、楽しんでやっているうちに、「上達」しているものではありませんか?
「大好きなハナミズキ見つけ思わず曲がる自転車 春追っかけて」(なっちゃん2002年9月21日)
5-7-5-7-7という定型をもつ短歌と一口に言っても実に様々です。古歌然としたものから茂吉流近代短歌、柊ニや佐太郎風現代短歌、また啄木流口語的(あくまでも口語的であって、仮名遣いは旧仮名)短歌や邦雄風前衛短歌、そして比較的最近の俵万智流口語短歌、果ては定型さえ捨てた非定型(ないし自由律)口語短歌まであります。上のお作は俵万智流口語短歌に近いと言えましょう。とても50代とは思えない若々しいお歌です。俵万智流口語短歌は一世を風靡しましたから、大変多くの人達がその影響を受けました。また触発されて短歌を始めた人も多いようです。その状況はかなり徹底していて、あたかも俵万智流でなければ短歌ではない、みたいな雰囲気さえ創られました。それは今に至るも一部に続いているようです。ここではそんなことには無関係に、つまり形式(上に述べた何々流とかだれだれ風とか)にはそれほど拘らずに、人を感動させる、日本語の美しさを最大限に、これだけを作歌の目標に、添削をしています。たまには冒険的な作歌もよしとしていますが。
これからどんな短歌を目指されるのか、まずそれを決めないといけませんね。
さて、お作ですが、かなりご自分だけ分かっている、ふうな面がありませんか。特に「思わず曲がる自転車」の句はそうです。「思わず(ハナミズキの方へ)自転車のハンドルをきる」ことなのでしょうが。結句「春追っかけて」はハナミズキに春を仮託したのですね。しかし、ハナミズキは別に逃げるわけではないでしょうに、「追っかけて」とは?
添削:
「あ、大好きなハナミズキだ!と自転車の方向急転し<春>へと突進」(なっちゃん)
(これ、非定型のようで、それなりのリズムがありますね。)
「稲田ではカルガモ放す無農薬家族の絆タフに伝わる」(夢子さん2002/09/20)
「タフ」がやや異様に目立ちますね。それに「タフな絆」と言うところを「絆」が「タフに伝わる」とされたのはどうしてでしょう。「タフだと思えるように伝わる」ということですか?それなら「タフな絆が伝わる」でいいですね。歌中のカルガモは害虫を食べてくれるのでしたね。つまり農薬の替わりにカルガモを使っているわけ。それによって稲を守るのですね。賢い方法です。感心!しかもこの一家がカルガモをその目的で雛から育てているのでした。主題が、この一家の絆の強さへの感動と、カルガモを害虫駆除に使っていることに感心したことと、二つありますね。主題を複数詠みこもうとすると大抵うまくいきません。無理して両方を入れても焦点がボケてしまうのです。添削ではカルガモの方を詠んでおきます。
添削:
「無農薬貫く一家は青き田にカルガモ放ち害虫駆除す」 (夢子)
(「貫く一家」で絆の強さ、タフさもいくらかは詠めていませんかねぇ。)
俵万智さんのサラダ記念日が大ヒットして口語短歌が大流行り。
ちょっとお洒落な感じの口語短歌に私も挑戦してみたいのですが
どんなことに注意すれば良いのかしら?
「かたときも携帯離さぬ若人に孤独の魅力を教えたくなり」(須美さん2001年7月12日)
「孤独の魅力」というのはちょっときついかな。「良さ」くらいでいいですね。教えたいという衝動は分かりますが、ヘタに口を出そうものなら、いらぬお節介、わたしの勝手でしょ、と反発されそうです。若人と言えど自分の領域にずかずかと入ってこられるのは大変嫌うものですから。
詠み方としては、あまり平坦にならないようにしたいですね。印象が薄くなりますから。そして、特に口語短歌の課題として、詩情と余韻をどう歌に乗せるか。みな悩むところですね。詠い込み習熟する以外ないでしょうね。
添削・改作(梧桐):
「若者はいつも携帯電話(ケイタイ)持ち歩く孤独の良さを拒否するように」 (須美)
これで短歌らしくなりました。歌材がよかったということでもあります。あとはそれをうまく短歌にまとめられるよう修練されることですね。まあ、慣れるということですが。
なお,上の改作では,携帯電話=けいたい、と読ませます。短歌ではよくやる、常用語のルビによる字余り回避です。つまり携帯電話という漢字のルビとして「けいたい」と付けるのです。これは携帯電話のことを「けいたい」と略して言う、いまどきの風潮を利用するものです。携帯と書いただけでは理解されるか不安ですからね。携帯ラジオ、携帯テレビ、携帯パソコンなどなど、馴染みのある携帯なになにという物はいくらでもありますから。
「ようやくに咲きし薔薇ひとつ切りくれし そのさりげなさひそかに嬉し」(あゆ子さん2001年8月7日)
初句「ようやくに咲きし」だから、自分の庭にようやく咲いたととれるし、
「切りくれし」は、切ってくれた、つまり何んらかの事情で自分では切れないのを、ある人(男性?)が切って呉れたととれてしまいます。ただ、後半で、好意が嬉しかったとあるから、やはりこれは初句からその人の庭に咲いたバラのことを言っていたのか、と思い至るという按配です。いずれにしても、幾様にも解釈できるということは、歌い方がまだまずいということですね。(歌によっては、幾様にもとれるように意識的に詠むこともあるでしょうが、ここは違う。)
この歌、背後に無言の言葉のやりとりがあるから、口語向きですね。また、「切る」よりも「剪る」です。はさみなどできるときはこちらが適切です。
添削・改作(梧桐):
「あの日君は「ようやく咲いた」と薔薇一輪さりげなく剪ってわたしに呉れた」 (あゆ子)
いい口語短歌ができました。決して俵万智風ではないです。「ひそかに嬉しい」と言わなくてもそれが伝わりますね。
万智ちゃん風にアレンジして
「一つだけやっと咲かせた赤い薔薇 切ってあたしにくれちゃうあなた」 (あゆ子)
面白い。これだと、相手も女性かな、と思ってしまうけれど。さらに万智風にしましょうか。
相手も女性として・・
「「一つだけやっと咲いたわ、赤い薔薇。あなたにあげる」って?まあ、嬉しいわ」 (あゆ子)
相手は男性として・・・
「「一花(いっか)だけやっと咲いたからあげましょう」無造作にくれるあなたが好きよ」 (あゆ子)
ははは、いくらでもバリエーション可能です。
「呼び捨てで名前を呼べないシャイな君いつまで<さん>でがんばるのかなぁ」(nanamiさん2002年7月6日)
こう来るなら・・・
添削:
「好きなのに・・わたしを呼び捨てできないの?いつまで<さん>でがんばるつもり?」 (nanami)
ははは、このほか色々とバリエーション可能ですね。なかなかピタリと決まらないのは口語短歌の宿命かも。
「「つづれさせ」蟋蟀は鳴くと祖母言ひし時代(とき)は移りて世は使い捨て」 (桐子さん2002年9月10日)
祖母に聞いたことがあります。蟋蟀は「褸刺せよ 褸刺せよ」と鳴くのだと つまり「寒くなってきたからそろそろ着物の綻びを繕いなさい」と教えているのだと。でも ものが溢れている今の時代では 簡単に捨ててしまい 昔のように継ぎを当ててまで着るという事がほとんどありません。
初句は漢字のほうが分かり易いでしょうか
この話、以前どこかで聞いたような気がします。いい歌材ですね。初句は実際の発語「つづれさせよ」がいいでしょう。(字余りを気にして「つづれさせ」で止めたのでしょうが。)この句が生命の歌ですからね。ただ、読者には何のことか分かりません。()で漢字を書く(逆ルビになりますが)か、注の形で漢字を示す必要があります。そして、その意味するところを、ここでの添え書きのように説明されるといいですね。特殊語についてはよく注釈を付しますので。
さて歌ですが、「時代(とき)は移りて世は」はいかにも散文的でまた常套的ですね。こういうところに表現上の工夫がほしいのです。(つまり、作歌が安易だととられるのです。日常的によく使われる語を使っておけば作歌が楽ですからね。しかし、それでは訴える力が弱くなってしまうのです。折角初句のような斬新な響きの語を使いながら、惜しいのです。)さらに、「言ひし」は連体形ですから、次に名詞が来るとそれに係るものととられてしまいます。「言ひし時代・・」たぶん、ここで一旦切れるのでしょうから、「言ひき」と終止形にするのがいいです。(語法としての連体形止めはありますが。)
添削
「祖母かって『つづれさせよ(褸刺せよ)』と蟋蟀の鳴く音(ね)を言ひき 今使ひ捨て」 (桐子)
「故郷へ心のとげを抜きに行く幼ら連れし昔もありぬ」 (槿花さん2002年9月4日)
心情が乗って、いい歌になっています。「故郷へ心のとげを抜きに行く」なんて、なかなか出来る表現ではありません。これは現在形ですが、今でも、という気持なのですね。あとの「昔」とちょっと相容れない感じではありますが。
添削:
「故郷へ心のとげを抜きに行く。かっては幼ら連れて行きしかな」(槿花)
(結句の字余りは、余韻を高めるために意識的にそうしたものです。)
短歌は定型詩であり、そのリズムが生命ですから、言葉の流れももちろんスムーズであらねばなりません。しかしそれは一要素。あまり流れ過ぎては歌が軽くなってしまう。(内容が軽いものならそれ相応ですがね。)歌材によってはむしろあまりスムーズに流れない方がいい場合もあるのです。あくまでも歌の内容に依存します。まず、歌材の選択ですね。語感なども大事ですしね。どんどん詠み込まれれば、自然に解ってくるものがあります。叙情詩と叙事詩。特に前者は語の選択、リズム、語感の心地よさ、余韻の含ませ方など、大切です。後者は、ともすると、内容に引きずられて散文的になり勝ちですが、そこを踏みとどまって、短歌としてのリズムは失うべきではないです。それがなかなか難しく、内容はいいことを捉えていても、歌になり切っていない歌をたくさん見掛けます。
なお、心理詠などもあります。これは一段と作歌がむつかしいが。
天才肌の人ならともかく、一般論として、たくさん詠んで、また他人の作品もたくさん読んで、短歌というものに慣れるよりしようがありませんね。すぐれた文章力のある作家の小説をたくさん読むことも役に立つ筈。焦らずにボチボチと、頑張ってください。Slow and steady win the race!まあ、短歌をやることは勝つことではありませんが、あくまでも比喩ということで。