2002年11月アーカイブ

観念歌

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「寂し時このみて読める歎異抄 深遠崇高浄土えの道」(九里多朗さん2001年9月6日

自分がフイに理由も無く寂しく成る時が有ります、そんな時に好んで読むのが歎異抄です生きて行くも浄土に行くのも、ただ念仏を喜ぶだけで総てが助けられて頂ける様な気持ちになり心が安らきます・・・少し観念的と思われるかも知れませんが私は歎異抄を読む度びに安堵感に救われているのです。

観念歌もあり得ます。心こもれば、観念歌も人心を打ちます。「歎異抄」に救いを求められる、その情景がはっきりと浮かびます。ご年齢は分かりませんが、やがてわが身ですから。添削は、文法的で最小限のものです。

添削
「寂しきに好みて読める歎異抄 深遠崇高浄土への道」 (九里多朗)

(初句「寂しきに」は、「寂しき時に」の時を省略したものです。)

心象詠

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下記二首、心象詠のつもりで詠みましたが複数の友人に見ていただいたら写実詠として受け取られました。心象詠として通じるようにするには如何したら良いのかご指導くださいませ。

  ひと筋の道果てしなし椰子の葉に裏表なく風吹き渡る(かすみさん2002年11月4日

  幾まがり曲がりて港に辿りつく一湾暮れて海の茫々(かすみさん2002年11月4日


いやはや、二首とも素晴らしい歌ですね。
 一首目。下二句「裏表なく風吹き渡る」なんて、絶妙の表現ですね。そのリアルさが写実詠ととられた因でしょうね。この歌の風景は、おそらくかすみさんの心象風景なのでしょうが。しかし、だからといって、この表現をわざわざ何か別の表現に変えるのはどうしょう。
 二首目。この歌はさらにいいですね。これも心象風景なのですね。やはり後半がリアルに感じられ、写実詠ととられたのでしょう。(もっとも、あおぎりには一首目以上に心象性が色濃く感じられます。)ただ、一首目もそうですが、心象風景と言えど、かって全く見たこともない風景を心に浮べることは不可能のはず。かって見た幾つかの風景の合成、および心的状況がミックスされ再構成された風景、ということでしょう。
 言われる通り、これらニ首とも、ただ風景を詠んだものではありませんね。心象詠であり境涯詠ともとれます。もっとも、写実詠といえど、しばしば写さんとする風景に心理的風景を重ねるものです。ただ、作者が現に見たか見ている光景が作歌の動機なのかどうかの違いはあります。
 短歌(に限らず、大抵の芸術作品)は、完成したとき、作者から自立します。鑑賞者はそれぞれの立場、心的状況に合わせて、それを鑑賞します。ですから、作者はそういうつもりではない、という解釈も当然出て来ます。もし、作者が身近にいて、実はこの作品はこれこれのつもり、と解説できるなら、そうされるもよし、それにより鑑賞者の解釈が変化してもしなくても、それはそれでいいのではありませんか。これらニ首はそうした類の作品と思います。

文語短歌の課題

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短歌を詠もうと文語旧仮名遣いを使ったりするとついつい万葉集や古今集のような古風な歌になってしまうことがありますが・・・。どうすれば現代的なセンスのある歌になるのかしら?




「侘しさや茜の雲の色も失せ人待ち顔の月もかかれる」 (桐子さん2001年8月1日

最近、「古今集」でも読まれたのかな。ちょっと古風ですね。

添削・改作
「夕茜雲の色さへ薄れきて差す月光も侘びしきは何故(なぜ)」(桐子)

(初句から第二句にかけて、「ゆふあかねぐものいろさへ・・・」と続けて読みます。)

上のようにでも詠えば、古色は薄まりますね。

「人恋し障子に月の影あわく夢であいたしあの頃の君 」  (桐子さん2001年8月1日

これもやはり古色が隠せません。

添削・改作
「月光がしんしんと障子に照る夜半あの日の君に逢ひたし 切に」 (桐子)

このように詠めば、古色が薄れますね。

花鳥風月、相聞も、現代風に洗練させないと、短歌としてなかなか成功しません。難しいことですが。




「うたかたの夏かなやうやう脱皮すも狙はれしセミならなほさらに」 (桐子さん2001年8月11日

「脱皮すも」は、脱皮はしたものの、ということでしょうね。語法的に、また文法的にちょっと苦しいです。ご承知の上でしょうが。全体として女性らしい柔らかい語感に好感が持てます。やはり、おそらく最近読まれたであろう古典の影響を、ちょっと感じます。文語旧仮名遣いを使っても現代的センスで詠めば、古色は払拭されるものです。その場合、文語旧仮名遣いはあくまでも「詩語」として、歌に格調を、つまり「高い歌格」を与えるために使われるものです。また、しばしば簡潔表現が可能のため、限られた語数を有効に使うことにも役立っています。古色とは無縁です。文語旧仮名遣いだから古いという感覚は先入観からくる偏見とさえ言えます。

添削・改作
「脱皮してはや鳥の餌(ゑ)になる蝉や うたかたの夏は悲哀にみちて」(桐子)




「朔の夜に ソラの果てには 望の影 満つれば虧くと 古人の言ふも」 (裕紀さん2001年8月15日

基本中の基本ながら、5・7・5・7・7という文字数に翻弄され、結局何が言いたいのかわからない歌になってしまいました。
「月の見えない夜の方が、かえって、心のどこかで満月を思ってしまう。『満月になれば月は欠けてくる』と、昔の人は、満月から欠けた月を思ったそうだが」
というのが、この歌で言いたかった事なのですが・・・。
先日、夜遅くに帰宅しようと自転車をこいでいた時、偶然月のない空を見て
浮かんだ想いです。
新月ではなく、たんに曇りだったのですが(笑)。

どうしてどうして、随分考えてありますね。ただ、言われるように、内容がちょっとわかり難いのが残念です。しかし、歌材の新鮮さといい、語彙の豊かさといい、将来性を感じます。定型は初めのうちは抵抗にもなりますが、もともと日本語に最適な韻律ですから、詠い込むことで、やがて抵抗無くすらすらと定型にはまった歌が出来るようになるものです。(「朔」という語は少々古風な感じを与えますね。歌全体に古風な感じがする。こういう古語とも言える語を、現代風に詠みこなすには、相当な修練が必要でしょう。文語旧仮名遣いでも、それを「詩語」として使いこなすことで、またその長所を生かして、十分現代的短歌は詠めます。現代でも、正統派短歌は文語ですから。)

添削・改作
「朔の月満ちてゆく影想へるに欠けゆく月を愛でしいにしへ」(裕紀)

(愛でし=めでし)





 ゆく夏を惜しみ さ庭に降り立てば
       東の空に ベガスス上り来
 (幸乃さん2001年8月31日

「ゆく夏を惜しみ・・・」は、いかにも古風です。全体的にも感覚的にちょっと古色があります。また、「ペガスス」は「ペガサス」ですね。思い切って改作してみます。

改作
「炎熱の夏過ぎんとしさ庭辺に涼めば地平ゆペガサス昇る」 (幸乃)

古風であることについては 今後どのようにとらえていったらいいでしょうか といっても ほんの少し短歌を詠み始めたばかりで たくさんつくってみること そして おそれずに投稿すること しか ないと思っておりますが 

その通りですね。少しづつ難しい注文もして行きますが・・・。今回のお作は、たまたま古風味になったのでしょう。それもまた味かもしれません。 

「紅葉の段のぼるとき光(かげ)うごき銀杏散るなりしぐれのごとく」(あすかいさん2002年11月21日

「散るなり」は文語旧仮名、「ごとく」もしかり。これは全体的に文語短歌となっています。統一されているという意味では、この歌はいいですね。(ただし、言われるような新仮名遣いではありません。「散るなあ」「ように」なら新仮名遣いです。もっとも、この歌にはそぐわないですね。)

「色のよきかたちの良きと比べ合いて紅葉落葉の山道くだる」(あすかいさん2002年11月21日

「色のよきかたちの良きと」は新仮名なら「色がよいかたちが良いと」ですね。だから、元歌では旧仮名遣いです。一方、「合いて」は新仮名遣いです。旧なら「合ひて」。 

「夫の忌に遺産放棄を言い出でし息子のことばに思いめぐらす」(あすかいさん2002年11月21日
 
「言い出でし」は「言い」が新仮名で「出でし」は文語旧仮名(新仮名なら「出した」)。「思いめぐらす」は遣い。もっとも、本来は「思いをめぐらす」ですね。

「呆けし母の介護のひまのうたたねに母は寄り来て布団かけくれぬ(あすかいさん2002年11月21日

「呆けし」は文語旧仮名(新仮名では「呆けた」)。「かけくれぬ」も文語旧仮名(新仮名では「かけてくれた」)。「ひま」も文語だし、この歌は文語旧仮名で統一できていますね。言われるような新仮名遣いでは全くありません。

名詞止め

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「たたなわる山の落ち合うひとところ長く留まる晩秋の霧」 (葉月さん2002年11月18日

山岳部では、気圧の関係でこうした情景が時々見られますね。歌として、ほとんどいいですね。

添削:
「畳(たたな)はり落ち合ふ山の窪み地に永く留まる晩秋の霧」 (葉月)

結句、名詞止めとなっています。これを「晩秋の霧永く留まる」とすることも出来ますが(動詞で止めること)、その時は(擬人化法で)意志をもって霧がそこに留まるニュアンスが出ます。霧が(自然に)動かないでいる様を表現するには、思考停止効果を含む名詞止めがいいですね。そこまで分かって名詞止めされたとしたら、歌をかなり永くやっておられる証拠です。もっとも、この問題は微妙で、作者の好みも関係しますが。)

「岳山がほんのり紅く笑み浮かべ紅葉来たる大和楽しむ」(忠実さん2002年11月8日

二上山ですか。万葉時代のロマンに誘われます。短歌的雰囲気があふれている、いいところにお住まいですね。
 歌ですが、「紅葉来たる」が判然としません。紅葉してきた、という意味でしょうが。山はいよいよ紅葉・黄葉の季節ですね。このところの冷え込みで加速されているようです。

文語旧仮名遣いの例
「岳山がほんのり紅く笑ふがに紅葉すすむ大和は楽し」

(「・・がに」は「・・かのように」の意味。)

口語新仮名遣いの例:
「二上山ほんのり紅(べに)をさしてきて紅葉すすむ奈良は楽しい」

秋色をほのかにふくみやわらかく
 老犬の寝息
 木犀のかほり
(fumikoblueさん2002年11月6日

まず、少なくともここでは、短歌は間を開けずに、ひと息で書くようにして下さい。それは、本来(原則として)短歌はひと息に詠む(かつ読む)ものだからです。ある種の効果を狙って、部分的に間を開けたりすることはありますが。
 各句ごとに間を開けたり、3行書きをされるのは、例えばNHK歌壇や歌碑などの影響でしょうか。それらは、一行に収めると、文字が小さくなってよくない、という単純な理由からです。また、関連して、読み易さを考えてのことかもしれません。一方、啄木などは後年の口語的短歌で(仮名は旧仮名)、3行書きを積極的にやりましたがね。行を変えるごとに、その屈折点で何か思いを詰め込んだのかもしれません。読者にはなかなかそこまでは読み切れませんが。
 さて、このお歌ですが。一首は口語新仮名遣いか文語旧仮名遣いに統一するのがいいです。(困ったことにNHK歌壇では平気でこれらまぜこぜの歌が披露されているようですが。せめてもの節度として、一方に統一してほしく思います。もっとも、これもあくまでも原則でして、とくに語感を良くしたり整えるために、文語短歌に新仮名遣いを入れたり、また逆をやることはあります。しかし、それは意図的にそうしているのであり、それなりの効果を得るのが目的です。単に野放図に両方まぜこぜをやることはまずいと思います。)ですから、まずこれから詠もうとする一首をどちらで詠むかを決めないといけませんね。(別の歌はまた別に考えるのです。作品全部をどちらかに統一するのではなくて。詠もうとする内容によっては、どちらかがいい、と大抵は判断できるものです。人により、トータルとして、文語短歌が多い、ないしほとんど、ということはあり得るし、また逆もあり得ますね。)この歌は文語仕立てですね。すると、「やはらかく」であり、「かをり」です。(このBBSではこれまで何度も書いたことですが、「かほり」はミス、「かをり」です。)
 老犬の寝息に気をとめられた点は異色ですね。

添削:
「秋の色ほのか滲(にじ)める やはらかき老犬の寝息と木犀の香と」 (fumikoblue)

「ごとく」「如く」

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「鉢植えの菊は日毎に膨らみて弾けるごとく今朝咲き始む」(すみえさん2002年11月4日

丹精こめられた花が咲くのは大いなる喜びですね。ここでは菊ですが。その喜びが素直に表現されたいい歌です。ただ、「は」は限定するニュアンスがあります。ここは「が」がよりふさわしいように思われます。「ごとく」は少しきついようですが、漢字で「如く」とするよりはいいですし、ここは毅然として(弾けるように)咲いた感じを出したいわけですから、「やうに」よりも「ごとく」がいいですね。そこまで考えられたとすれば、大したものです。

添削
「鉢植えの菊が日毎に膨らみて弾けるごとく今朝咲き始む」 (すみえ)

「雨雲の去りし朝日に行縢山 岩肌荒く近くに見ゆる」 (由里さん2002年11月4日

雨のあとは山も田園も澄んで見えますね。雨が空中の塵を洗い落としてくれるからだと思います。そして、山肌などがいつもより近くに見えるわけですね。「行縢山」は「むかばきやま」と読むのですね。振り仮名が必要かもしれない。標高831メートル。大きな岸壁があり、九州でも名山のひとつ、とのこと。歌中の「岩肌」はこれですね。
 お歌はほとんどいいですが、少し変えましょう。

添削
「雨雲の去りて朝日に行縢山(むかばきやま)荒き岩肌迫りてぞ見ゆ」 (由里)

(何か万葉的な雰囲気の歌になりました。)

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