2003年4月アーカイブ

「乞食」と言う言葉は今では差別語ではないでしょうか?そうだとすると使用すべきでないと思われます。もっともこの歌の場合「ホ-ムレス」が相応しいとも思えませんが。
私が関係する医療界では使うべきでない差別語がとりわけ身体障害に関連して数多くあります。「めくら、つんぼ、びっこ、気違い」などです。差別語ではありませんが「精神分裂症」も誤解を招きやすいと言う理由で昨年から「統合失調症」に変わりました。「痴呆」と言う言葉はれっきとした医学用語ですが痴呆=「気違い」と取る方も今だ多く患者様と話す時は「物忘れ」などと言い換えます。
一般的に歌壇界では「言葉と人権」「差別語と表現の自由」などに関連して何か一定の見解やガイドラインなどあるのでしょうか。(迷倫さん
2003/04/19


短歌界固有の差別語表などありません。いつかも書きましたように、短歌はよほど制約とか約束事のない(少ない)短詩形です。世間に流布している差別語は、世間的によくないとするのと同じ理由で、短歌には使わないようにするでしょうが、それは短歌界のガイドラインというものではなく、世間的習慣に従うだけです。時には、その効果があると作者が思うときは、誤解を招かない形で差別語とされる語も使うかもしれない。
 <乞食>という語、確かに最近はあまり聞かれません。いつの頃からか、<差別語>のリストに登録されて、それが知らない内に世間一般に浸透していったのかもしれない。しかし、言葉というものはあくまでも自然が大切でしょうね。いちいち、あまり言われると、わたしなどは<差別語>という語自体が<差別語>に聞こえてきてしまう。<差別語>で人を差別することが起こり兼ねない。つまり「おまえはいま差別語を使った、けしからん」とかね。すべて、時と場合であり、程度問題でしょうね。特定の悪意などが意識的に篭められた言葉は別として、本来、個々の言葉に色なぞ着いていない。言葉は一人一人の中で生きています。人格そのものかもしれない。そのことを大切にしたいですね。はじめに差別語ありき、ではなく、人を思い遣る気持ちがあれば、どんな言葉でも生きるでしょう。(逆に、思い遣りがなければ、どんな優れた言葉でも死んでしまいます。)わたしはそう思いたい

「散りてなお役目果たさんさくら花黒き舗道を仄かに染める」 ( はるかさん2003/04/11

この時期によく見掛ける光景ですね。散った桜の花びらは意外なところにまで飛んでいくようです。
歌ですが、「散りてなお役目果たさん」といった表現は理屈っぽいとして短歌ではなるべく避けます

改作:
「ほの明かく黒き路面を染むるかな散りてののちも桜は桜」( はるか)

(「散りてののちも」の「の」は語調を整えることと、軽い強意です。)

「おり」

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「春の雪にまどゐしリスが餌箱に逆さになりて餌ほおばりぬ」(渓水さん2003/04/10)

フリージングレインfreezing rain ですか。経験がなく、聞いただけで身震いが出ます。4月というのに、寒いのですね。(ニューヨークも雪だとか。テレビでは、MLBの選手たちが白い息を吐きながらプレーしていました。)

添削:
「春雪にまどへるリスが餌箱に逆さになりて餌(ゑ)を頬ばりをり」(渓水)

最初「餌箱」があるので、「餌ほおばりぬ」は不要と考え、本当の姿は「逆さになりてしがみつきをり」だったのです。 でも「をり」は使用されているが、本来無い言葉と2,3度書かれておりましたので、「しがみつきをり」をやめました。 このような場合如何な(このをり)すればよろしいでしょうか。 もしかして私の誤解かも知れませんので、ご教授頂けましたら幸いです。

旧仮名でも新仮名でも「おり」という記法がないのです。旧仮名なら「をり」です。(発音は「おり」に近いでしょうが、旧仮名の記法として「おり」はないのです。新仮名にはもちろんありません。「いる」は「ゐる」(旧仮名)であるのと同類です。もっとも、「いる」は新仮名にありますが。新仮名で通すなら、「おり」は使わないで「いる」としましょう。)

「あれやこれ 忘れた妻の ひとりごと 雪ふりやまず 共にハミング」 (豊子さん2003/04/07
「うつろなる 婆の手をとる おさな子に 風さそいてか 桜舞ちる」(豊子さん2003/04/07

短歌は俳句に比べれば余程約束事の少ない短詩形です。五七五七七という定型が基本ですが、字余り字足らずも効果があるときや、気にならないときなどには使います。文語旧仮名遣ひでも口語新仮名使いでもいいですが、ただ一首の中ではなるべくどちらかに統一するようにします。根本は、説明や理屈ではなく感動を伝える、ということですね。もちろん、感動と一口でいいましても、個人的なもの、普遍的なもの、景色、感情、意識、無意識、過去・現在・未来のこと、、、などなど正に千差万別、無限無数の種類がありますね。ですから、短歌の可能性は無際限です。
 歌ですが、添削するには、その背景に関する知識がわたしになく、本来の趣旨から外れることもあり得ます。

添削:
「世のなべて忘れし妻はひとりごつ雪も降り出でともにハミング」(豊子)

(「なべて」は「全て」、「ひとりごつ」は「ひりごとを言う」の意味です。)(豊子)

「痴呆なるお婆の手を取り風のむた幼子(をさなご)いざなふ桜散る辺(へ)に」(豊子)

(「風のむた」は「風と共に」の意味です。)

「花見るひと 見られしを知らず 内見る人 花の声にも気づく」 (マキさん2003/04/07

人が花を見る時自分も花に見られている事には気づかない。自身を内観する人は花の声にも気づく。というような事を詠みたいのですが、まとまりません。何とかパシッと決められないでしょうか?

初めから随分複雑な内容を詠もうと挑戦されますね。哲学的ですらあります。末が楽しみです。ただ、理屈っぽいことは歌になり難いですよ。短歌は詩の一種であり、理屈ではなく、感動を詠むものですからね。こうした内容はなかなかバシッとはいきませんが。。。(^^;)
 内見る、内観する、とは自分を客観視することでしょうね。マキさんはこう言われるわけだから、内観できる人ですね。末が楽しみです。

改作例:
「花見れば花に見らるる知る人は花の嘆きも聞くらく覚ゆ」 (マキ)

(意味は、『花を見れば花に見られている、そのことを知る(自覚)する人は、花の嘆きも聞こえているものだと思う。』)

添え書きはなるべく簡潔を旨としたいですね。短歌というものは、短歌だけで、しかも本来一首一首で成り立つものです。歌が詠まれた経緯とか、背後にある作者の個人的な事情とは無関係に、歌の鑑賞者(読者)は自分の個人的な精神世界の中で作品を鑑賞する。これが原則です。(もちろん、場合に応じて、最小限の説明が必要なこともありますが。)ですから、しばしば歌の作者の意図とは全く違うものとして鑑賞されます。作者は読者の理解・鑑賞に枠をはめたりするものではありません。それは強制になるからです。(歌が詠まれた事情とか作者の個人的背景は、鑑賞者にとって作歌者が身近な人であったり、作歌者が有名人のときは穿鑿されたりもしましょうが。

「岡田山に咲く花見れば遠き日にこの花を見し人の思ほゆ」(大仙さん2003/04/06

 この歌の場合、短歌として十分成立しています。詠まれていない部分(作者大仙さん自身として詠みきれていない部分)は、それを読む側の想像、連想に任せればいいわけです。そうでなければ、歌を鑑賞する側の自由意思が狭められてしまいますから。

添え書きの文体

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(添え書きをつけてみました。ところで、この添え書きは添削していただくためというよりは状況説明というか、これが無いと意味が通じない歌となっていますがそのあたりはいかがなものでしょうか?また、添え書きもこのように文体を同じにすべきなのでしょうか?)。

わが妻の生き別れの父と再会せしことを詠める歌
「瞬時にて埋まりし父と娘の溝に十年分の涙流れむ」(まことさん2003/04/05

歌の前の添え書き、古歌集に倣いましたね。随分古く感じませんか?ここは現代文でいいでしょう。(「自分の妻が生き別れた父と再会したことを詠んだ歌」ですかね。)歌の「埋まりし」は、土砂や(地震で倒壊した)家屋に埋まった、ということではないのですね。この語が先にあると、どうしてもそのようにとられてしまいますね。何か事故か事変があって、離れ離れになったと。
 この歌の背後には随分複雑な過去が隠されているようですね。

添削:
「わが妻は10年振りに父と会ひ涙で瞬時に溝を埋めぬ」 (まこと)

「おり」

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「クレーン車を遮る桜の花枝が無造作に切られ雨に濡れおり」(mukugeさん2003/04/03

工事優先、ということでしょうか。おそらく立派な桜。切るには惜しい枝ぶりだったことでしょう。その上、花枝とあるから、咲いた花をつけたままなのですね。なお、最後の「おり」ですが、旧仮名なら「をり」、新仮名なら「いる」とでもして下さい。「おり」と言う語は元々存在しませんので。これが世に氾濫していることは事実ですが、困ったことだと思っています。せめてここでは使用禁止ということで。。。

添削:
「クレーン車の邪魔とて桜の枝切られ花付けしまま雨の路上に」(mukuge)

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