2007年3月アーカイブ

直接的過ぎる表現?

 「騒がしき百花の春をよそに見て茶室に貝母の静けさを挿す」(宋見)
春の花が一斉に咲き始めました。桜の花の開花も近く、花見に騒がしい頃となりました。 でも茶室の花は「バイモ」の花の、控えめな静けさが好きで、この季節の花として大切に育てています。


貝母(バイモ)は、日本流には「編み笠百合」というのだそうですね。その姿からなのでしょう。ひっそりと控えめな花。 これも栽培しておられるのですね。さすがに茶のお家。茶道はお茶を嗜むだけではないこと、学ばせて戴いています。上のお作、 特に後半が秀逸ですね。初句の「騒がしき」は、このお作としては直接的過ぎる表現に思えます

添削:
華やかな百花の春を余所(よそ) にして茶室に貝母の静けさを挿す」(宋見)

ほのめかし、と、あいまい

「淡き藍快晴の空おおいける小さき雲を吸い尽くさむと」(夕夏)
「あわきあいかいせいのそらおおいけるちいさきくもをすいつくさむと」(夕夏)
短歌を始めてから半年程度、文法も得意ではないので、見よう見真似のものです。 よろしくお願いします。
 
一首目で「おおいける」は「覆い(ひ)ける」のおつもりでしょうか?また、 歌意は晴れた空が小さな雲を吸ってしまうようだ、ということですか?ちょっとしっくりしませんが・・。快晴の空が淡い藍だとは?また、 空を覆うか、空が覆うか、ですが。前者なら空を何が覆うのか、また後者なら空が何を覆うのか、ですね。あいまい表現になっていますね。 今一度推敲されませんか?

「淡き藍早春の空染め抜きて小さな雲は翳み始めむ」(夕夏)
ちょっと推敲してみましたが、淡い青空と小さな白い雲を見ての感想ですので、あまり代わり映えがしないと思います。 題材が悪かったのでしょうか、それとも観察力が足りないのでしょうか。表現力は限られていますので。 快晴といっても霞んだような空でしたので、早春の空に代えました。この時期の雲は、太陽の陽差しで消えてしまうので、 このような感じかなと思います。よろしくお願いします。


 「この時期の雲は、太陽の陽差しで消えてしまう」・・そうですね。 雲の種類にもよりますが、薄い雲はいつしか消えています。「表現力は限られています」とのことですが、初心の間は往々にしてそうです。 そのため歌だけでは真意が伝わらない場合が多いので、説明文としての添え書きをして戴いています。この歌、何を詠おうとされたのでしょうか? (添え書き含めて)何度読んでも、(歌以前に)日本語としても意味不分明ですが・・・?散文でなら、詠まれたいことを書けますね?ご説明を・ ・・。

久々に暖かくなり庭に出てみますと空には雲一つ無い淡い青、 太陽の陽射しもちょっとまぶしく目を伏せてしまい改めて見ますと小さな白い雲が目に入りました、始めは無かった様に思ったのですが、 以前雲ができる光景も見たので、出来たばかりかなと思いました、この陽気ですとすぐに消えてしまいそうだなとも思いました。淡き藍(愛) 当然掛詞は考えました。元々性格的にきっぱり、詠める性格ではないので、曖昧な詠みが多いです。文も上手に書けるほうではありませんし、 話しも下手です。今は自己流で詠んでおります。やはり、上手く書けませんね。

「曖昧な詠みが多い」とのことですが、ほのめかし、と、あいまい、 は全然違います。あいまいでは伝えたいことが読者に伝わりません。それでは短歌にならないのです。ほのめかしなら、 読者の方でいろいろと忖度も出来、それなりに歌になります。もう一度、ご投稿の自作短歌を読んでみて下さい。 (短歌という以前に)一体何を言っているのか、日本語になっていないですね?(前衛短歌でさえ、 読めばある種のイメージが読者に浮かぶものです。また、それが狙いの作でもあります。)

却って訴える力がそがれる?

  「ゆで卵をつるりと剥きゐる昼下り芯まで砕けたる心抱きつつ」(麻里子)
土日は元気だったのですが(添削していただくころにはまた元気になっているかもしれませんが) 。ゆで卵は,殻を割るとなぜこんなにつるりとしたきれいなものが出てくるのか,(感情的に)不思議でなりません。。。 よろしくお願いいたします。

おっしゃる通り、茹で卵は殻を剥ぐとつるりとした白身が現われます。 中に栄養たっぷりの黄身を包んで。。。不思議な充実振りではあります。
添削(改作):
ゆで卵をつるりと剥きゐる昼下り中身は芯まで砕けゐるやも」(麻里子)

すみません,私の言葉足らずだったのだと思いますが,ゆで卵は普通にきれいにできていました。 それを剥いている私の心のほうが芯まで砕けているのに と言いたかったのですが...。

添削歌についてですが、表面がつるりとしていて、中身(黄身) が砕けているということは実際上あり得ませんね。それを敢えて「中身は芯まで砕けゐるやも」と言っているのは、 つまり作者の心奥の投影を詠んでいるのですね。「芯まで砕けたる心抱きつつ」 ではあまりに赤裸々、直裁的で、却って訴える力がそがれています。

ヤ行の動詞

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「人の世に憂ひなければ歌はなく心なくして人は絶へなむ」(劫)
 大袈裟な物言いかもしれませんが、世の中に「憂」というか「負」 があるからこそ、美しいものが感じられ、芸術が生まれるのではないかと思います。もちろん、 何事もない全くの平穏な日日は素晴らしいのかもしれません。ただ、そんな世の中を想像したとき、人間が心を失ってしまった世界、 もしくは人間のいない草木や動物たちだけの世界に思えてしまうのです。

何事にも表と裏がある、という事ですね。裏があって表がある。その通りでしょうね。その論で行けば、 戦争があっての平和ということにもなりますが・・・。お作で「心なくして」は「心がない状態で」ということではなく「心失(なく)して」 「心無くして」の意味でしょうね?なお、口語の「絶える」は文語では「絶ゆ」で、ヤ行の動詞です。ですから、未然形、 連用形の語尾は口語と同じ「え」です、「へ」ではなく。(「へ」ですと、ハ行の動詞ということになるのです。)

添削(旧仮名):
人の世に憂ひなければ歌はなく心を無くして人は絶えなむ」(劫)

散文的?

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昨年の台風による塩害か庭の桜も咲くのは少し」(ゲンさんちの猫)
この季節例年ですとたくさんの花が咲き春にはさくらんぼが実る庭の桜の木ですが、昨年の台風による塩害の為か今年はほんの少ししか花が咲いていません。さくらんぼも今年は期待できそうにありません。
前回は、自分の目に見えているものが他人にも見えていると錯覚し独りよがりの歌になったようです。その反省の上で状況が伝わる様に詠ったつもりですがいかがでしょうか。宜しくお願いいたします。

「自分の目に見えているものが他人にも見えていると錯覚し・・・歌」を作るのは初心の人に共通の現象ですので、あまり気にされないで下さい。今回のお作は、そのことを気にされ過ぎてか、散文的になってしまいました。短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感・・・が求められます。

添削(改作):
台風による塩害が残るのかさくらんぼ用の桜も不調」(ゲンさんちの猫)

添削有り難うございます。
短歌教室は最初から目を通させて頂きました。
しかし、先生にせっかく添削して頂きながら十分理解できないでいる自分が不甲斐ないです。
そこで散文的にならない為のポイントなどありますでしょうか。短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感等は歌を読み込むうちに自然と会得すべきものなのでしょうか。それとも基本がなっていないがために理解出来ないのでしょうか。
ご指導宜しくお願いいたします。

作歌は、才もありますが、何より慣れでしょうね。書かれていますように「短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感等は歌を詠み込むうちに自然と会得」すべきものですね。(他人(ひと)の)短歌集をたくさん読んで鑑賞することも必要でしょうし。その場合、一人の歌人の歌集を集中して読むか、なるべく色々な歌人の歌集を読むか、ですが、わたしとしてはあとの方を勧めますね。歌から離れて、読書されることも役立つでしょう。これはされている?

紅梅の枝垂れて咲くさま麗しき立ち姿から樹齢を思ふ」(瑞希)
あおぎり先生、こんばんは~!♪今日、お昼間は・・・暑い位に、暖かかったです。そして、道中で見掛けた・・・見事なまでの、「しだれ梅」に惹かれて詠んでみました。

どこかへ出掛けられる途中で、この見事な枝垂れ紅梅の花を観られたのですね。お作の後半「立ち姿から樹齢を思ふ」という説明的散文的な言い方は短歌ではあまりしないでしょうね。

改作:
枝垂れつつ紅梅の咲く観て飽かず樹齢は百年否々千年」(瑞希)

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